SRP教育研究所

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「自立して生きる」とは何か?

by srp - 4月 11th, 2011.
Filed under: その他.

いま学校や塾に通っている子ども達も、いずれ学校を卒業して職に就き、そして「自立」していく。この人生の過程を経ることを子どもたちは求められていますし、また周囲もそう期待しています。教育の目的は様々あるかと思いますが、「子ども達が自立して生きられるようになる」こと、これがひとつ共通しているといえるでしょう。

一般的に「子どもが自立する」とは、親元から離れ、自分で自分の生計を立てられるようになることをいうのではないかと思います。ちなみに手元の広辞苑で自立の項を引いてみますと「他の援助や支配を受けず自分の力で身を立てること」とありますが、要するに誰の助けもなしで自己完結的に生活できること、これが「自立して生きる」ということなのだといえるでしょう。

私たちの社会では、このように「自立して生きる」が人間の果たすべき目標のひとつとされています。人の助けを借りず、自分のことは自分でやる、これがあるべき人間の基本的なあり方なのだと。

しかし、誰からも助けを受けずに生きていくことなどできるのでしょうか?

とある身体障がい者の方のお話なのですが、その人は手足がほとんど動かないにも関わらず、病院や施設に入らないでアパートの一室を借りて「ひとりで」暮らしています。もちろん「一般の」人間であれば造作もない日常生活の諸事も、その人にとってはとても困難です。家事をこなすにせよ外出するにせよ、他の人の手助けが必要なので、その人は一日に数十回も電話して介助を求めるのだそうです。

けれど、その人は「自分は自立して生活している」と言うのです。

私たちの感覚からすると、その人が「自立している」ようにはとても見えません。自分のことは自分でやれていること、これが一般的に「自立している」と言われているのですが、その観点からですと、この人のように多くの人の介助なしには生活が送れないというのは、自立しているとは言い難い。それどころか「自分の勝手で多くの人間にいらぬ迷惑をかけている。その人はわがままを言わずに病院や施設に入るべきだ」との批判も出てくるやもしれません。

さて、ここでひとつ見方を変えてみましょう。すなわち、一般の「健常者」たちは自立して生きられているのかどうか。

たとえば私たちはお腹が空いた時、レストランやコンビニに入って料理や食品を買います。それらは自分で作ったものではなく、誰かが育てた作物を、誰かが料理(加工)したものです。もしこれらのお店がなくなってしまったら、私たちは食べる物に困ってしまうでしょう。

水道水に放射性物質が混じった、という情報が流れてから、ペットボトルの飲料水の買い溜めが起こりましたが、これは私たちが生きるにあたって必要不可欠な生活用水をいかに水道に依存していたかを如実に示した出来事といえるでしょう。水道ひとつがダメになっただけで、私たちの生活は脅かされてしまうのです。

さらには計画停電です。私の住んでいる地域は区画外でしたのでその不便さを体験したわけではありませんが、電気がなくなっただけでどれだけ生活に支障が出るかを多くの人が実感したはずです。とくに入院中の患者さんなど、医療機器に繋がれている方はまさしく命を左右するほどの支障が出たわけです。

このように、たとえ「自立して生きている」という人でも、その生活は様々な社会のシステムや制度に依存しているのです。「いやいや、食料も水も電気も、自立している人は自分で稼いだお金で買っているんじゃないか」という声もあるかと思います。しかし、買い溜めや水道水の汚染、電気不足はお金でどうこうできるものだったでしょうか?お金が通じなかったからこそ、大きな問題になったのではないでしょうか。それに、食料は自分の畑や牧場で、水は井戸や山水から、電気も自家発電、というような、生活に必要なものすべてを自前で用意できている人、つまり本当に自己完結して(自立して)生きられている人にとっては、これらの問題が起こっても何の不都合もなかったはずです。

ふつうの一般人は、およそ「自立している」といっても「自分のことは自分でやっている」とはとても言い切れないのです。みんな社会全体を動かすいろいろな部分を担いながら、互いに依存しあって……というと少々コトバが悪いですが、つまり助け合って生きているわけです。もし私たち一般人の生活を「自立している」というのであれば、それは「自立して生きさせてもらっている」あるいは「自立して生きる環境・条件を社会から与えられている」ということなのです。

してみれば、先ほど挙げた身体障がい者の方が「自分は自立して生活している」と語ったのはおかしくないのではあるまいか、この人もまた、私たちのいう「自立している」状態の延長線上に属しているのではないか、こう考えられるかと思います。誰の助けもなしに生きる、これは現代に生きる私たちにとって実はほとんど不可能です。私たちの生活が他の多くの人々に支えられているならば、あとは「どう支えられているか」のちがいだけしかありません。

「自立している」というのは「誰の援助も受けずに自己完結した生活を送れている」ことを言うのではない、と思います。「自立している」とは、つまり「自分のことは自分でできる」とは「個人が個人として生きられている」という状態を指しているのではないでしょうか。他人の指示や支配を受けずに「このように生きる」という己の意志に従って生きていること、これこそが「自立して生きている」ということではないか。言い換えれば、人間の自由をしかるべく行使していることが「自立」なのです。

自己完結した生活という意味での「自立」は、ともすれば同じ社会に生きている人同士の結びつきを希薄にしてしまう、そういう危険もあります。なぜなら、人は自分の力のみで生きられる、という前提に立てば、困っている目の前の人を自分が助ける理由などなくなってしまうからです。すると、私たちの生きる「社会」はひどく窮屈で冷淡なものになってしまう。そうではなく、お互いがお互いの意志、つまり自由に生きているという意味での自立の精神を尊重しながらも、しかもお互いに支えあっているという感覚をもつこと、そしてそのうえに同じ共同体に所属しているという感覚を育むこと、これこそが大切なのではないでしょうか。

(文責:斎藤)

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