SRP教育研究所

江東区森下・中央区月島の学習塾&研究機関「SRP教育研究所」の日常

お茶会のお知らせ

by srp - 3月 17th, 2012

明日、18日(日)はSRPのお茶会です!
昨年同様、森下校・月島校の合同開催で、今年の会場は森下校となります。

年度末に「1年を振り返る」「受験生おつかれさま会」を兼ね、ささやかながらではありますが軽食を用意してお待ちしております。
OBOG・在校生・教員もみんな一緒にゆっくり楽しく過ごしましょう!

・・・SRP 春のお茶会・・・

開催:森下校
(月島校からの送迎あり (13時月島校集合))
日時:2012年3月18日(日) 13:00 ~18:00
*開催時間中、出入り自由
費用: 無料
その他:軽食あり
(*アレルギーをお持ちの生徒さんは当日お申し出ください)

おすすめ図書

by srp - 2月 3rd, 2012

マルサス「人口論」

2011年現在、地球上には65億もの人々が暮らしています。いまのペースのまま人口が増えていきますと、2050年には100億人に達するだろうと予測されています。これだけ人口がおりますと、いまでさえ飢餓で苦しんでいる人がいるというのに、はたして食糧が足りるのだろうかと心配になってしまいますね。

1798年、マルサスはこの人口と食糧の関係を論じた「人口論」を刊行しました。その妙義はいたってシンプル。人口は放っておくと元の数の2倍、4倍、8倍とかけ算式に増えていくのに、食糧はいくら努力しても2倍、3倍、4倍と足し算式にしか増えていかない、というのがそれです。

しかし、現実にはそこまで危機的な食糧不足は起こりません。なぜでしょうか。マルサスは「貧困や悪徳」によって人口増加が抑制されているからだ、と言います。子どもを養うにはお金がかかりますから、いまより貧しくなりたくない人は子作りを控えます。このような損得勘定が働いた結果、人口は適正規模に保たれる、と言うのです。

これには賛否両論吹き上がりました。貧困が存在しているから人類は破局的な結末を免れている、ということですから、つまり人類社会にとって貧困は不可欠ということになります。あまりに冷酷非情な主張ですが、とはいえ、食糧は人口ほど増やせませんから、抑制作用がなければいずれ破綻してしまいます。だから、仮に貧困を根絶してしまえば、かえって全人類の存続を危うくしてしまう――。

「貧困は社会のためになっている」という結論は、心情的には容認し難いものですが、なんとなく経験的にうなずける部分もありますし、「貧困はなくさなくてもいい」と言われると、先進国に暮らしている私たちが貧困に苦しむ途上国をながめるときに覚える後ろめたさから幾分解放された気になれます。

本書の魅力は、悪魔がささやくようなこの「甘美な誘惑」にあるのかもしれません。

(サイトウ)

「発明家ショップ トキメキ」にお邪魔しました。

by srp - 1月 30th, 2012
森下・月島校にもございます「カメレオン」や「もじならべ」などの
パズルゲームで知られるヒラメキ工房の発明家・関場純氏が代表を務める
発明家ショップ トキメキ」にお邪魔しました。
発明家ショップ トキメキ
店内にはヒラメキ工房さんのパズルはもちろん、
レンタルボックスには他の発明家の商品も。
トキメキ
こちらは、グーチョキパーのコマを裏返して遊べるベクトル将棋。
6歳から遊べるゲームで、コマの矢印の方向のみに1マス動かし
将棋のようにコマを取り打ち合うゲームです。
SRP全体でヒラメキ工房さんのパズルゲームを導入中です。
「1.2.3ならべ」の推薦文は当研究所のイタミが書かせて頂いたり…。
(目にする機会がありましたら是非。)
校舎によって置いてあるゲームが異なりますが
みなさん是非ヒラメキ・トキメキながら遊んでみてくださいな。

森下校・小西

中央区「第7回 学びの宝箱」を終えて

by srp - 9月 26th, 2011

9月24日(土)に行われました、
中央区地域家庭教育推進協議会・あすなろの木 共催の
「第7回 学びの宝箱 」

今年も各講座ともに大盛況で、子どもたちの楽しそうな声を聞くと
毎年この催しに関われることが本当に嬉しく思えます。

ご参加頂いた方々、
中央区地域家庭教育推進協議会・あすなろの木のスタッフの方々に感謝申し上げます。

また、今年度は会場の関係上、申し込み開始の2日後に満席となってしまい
ご希望いただいたすべての方に、ご参加いただけたわけではないことについて
本当に申し訳なく思います。ご希望が多かった場合は月島校で
追加実験を行うことも、現在、検討しています。
講座の様子。
まなび2

まなび1

おまけ(講座終了後のひとコマです)。
まなび3

中央区「学びの宝箱 2011」 

by srp - 9月 3rd, 2011

中央区「学びの宝箱 2011」 9月24日(土)
(中央区地域家庭教育推進協議会・あすなろの木 共催)

恒例の「中央区・学びの宝箱」講座ですが、本年もSRP教育研究所からは、教員2名での講演を行います。本年は初心にかえり、文系:池田、理系:伊丹という初回参加時と同じ教員で、午前10時から11時頃を担当させて頂きます。

※講座は予約制です。

manabi

「自立して生きる」とは何か?

by srp - 4月 11th, 2011

いま学校や塾に通っている子ども達も、いずれ学校を卒業して職に就き、そして「自立」していく。この人生の過程を経ることを子どもたちは求められていますし、また周囲もそう期待しています。教育の目的は様々あるかと思いますが、「子ども達が自立して生きられるようになる」こと、これがひとつ共通しているといえるでしょう。

一般的に「子どもが自立する」とは、親元から離れ、自分で自分の生計を立てられるようになることをいうのではないかと思います。ちなみに手元の広辞苑で自立の項を引いてみますと「他の援助や支配を受けず自分の力で身を立てること」とありますが、要するに誰の助けもなしで自己完結的に生活できること、これが「自立して生きる」ということなのだといえるでしょう。

私たちの社会では、このように「自立して生きる」が人間の果たすべき目標のひとつとされています。人の助けを借りず、自分のことは自分でやる、これがあるべき人間の基本的なあり方なのだと。

しかし、誰からも助けを受けずに生きていくことなどできるのでしょうか?

とある身体障がい者の方のお話なのですが、その人は手足がほとんど動かないにも関わらず、病院や施設に入らないでアパートの一室を借りて「ひとりで」暮らしています。もちろん「一般の」人間であれば造作もない日常生活の諸事も、その人にとってはとても困難です。家事をこなすにせよ外出するにせよ、他の人の手助けが必要なので、その人は一日に数十回も電話して介助を求めるのだそうです。

けれど、その人は「自分は自立して生活している」と言うのです。

私たちの感覚からすると、その人が「自立している」ようにはとても見えません。自分のことは自分でやれていること、これが一般的に「自立している」と言われているのですが、その観点からですと、この人のように多くの人の介助なしには生活が送れないというのは、自立しているとは言い難い。それどころか「自分の勝手で多くの人間にいらぬ迷惑をかけている。その人はわがままを言わずに病院や施設に入るべきだ」との批判も出てくるやもしれません。

さて、ここでひとつ見方を変えてみましょう。すなわち、一般の「健常者」たちは自立して生きられているのかどうか。

たとえば私たちはお腹が空いた時、レストランやコンビニに入って料理や食品を買います。それらは自分で作ったものではなく、誰かが育てた作物を、誰かが料理(加工)したものです。もしこれらのお店がなくなってしまったら、私たちは食べる物に困ってしまうでしょう。

水道水に放射性物質が混じった、という情報が流れてから、ペットボトルの飲料水の買い溜めが起こりましたが、これは私たちが生きるにあたって必要不可欠な生活用水をいかに水道に依存していたかを如実に示した出来事といえるでしょう。水道ひとつがダメになっただけで、私たちの生活は脅かされてしまうのです。

さらには計画停電です。私の住んでいる地域は区画外でしたのでその不便さを体験したわけではありませんが、電気がなくなっただけでどれだけ生活に支障が出るかを多くの人が実感したはずです。とくに入院中の患者さんなど、医療機器に繋がれている方はまさしく命を左右するほどの支障が出たわけです。

このように、たとえ「自立して生きている」という人でも、その生活は様々な社会のシステムや制度に依存しているのです。「いやいや、食料も水も電気も、自立している人は自分で稼いだお金で買っているんじゃないか」という声もあるかと思います。しかし、買い溜めや水道水の汚染、電気不足はお金でどうこうできるものだったでしょうか?お金が通じなかったからこそ、大きな問題になったのではないでしょうか。それに、食料は自分の畑や牧場で、水は井戸や山水から、電気も自家発電、というような、生活に必要なものすべてを自前で用意できている人、つまり本当に自己完結して(自立して)生きられている人にとっては、これらの問題が起こっても何の不都合もなかったはずです。

ふつうの一般人は、およそ「自立している」といっても「自分のことは自分でやっている」とはとても言い切れないのです。みんな社会全体を動かすいろいろな部分を担いながら、互いに依存しあって……というと少々コトバが悪いですが、つまり助け合って生きているわけです。もし私たち一般人の生活を「自立している」というのであれば、それは「自立して生きさせてもらっている」あるいは「自立して生きる環境・条件を社会から与えられている」ということなのです。

してみれば、先ほど挙げた身体障がい者の方が「自分は自立して生活している」と語ったのはおかしくないのではあるまいか、この人もまた、私たちのいう「自立している」状態の延長線上に属しているのではないか、こう考えられるかと思います。誰の助けもなしに生きる、これは現代に生きる私たちにとって実はほとんど不可能です。私たちの生活が他の多くの人々に支えられているならば、あとは「どう支えられているか」のちがいだけしかありません。

「自立している」というのは「誰の援助も受けずに自己完結した生活を送れている」ことを言うのではない、と思います。「自立している」とは、つまり「自分のことは自分でできる」とは「個人が個人として生きられている」という状態を指しているのではないでしょうか。他人の指示や支配を受けずに「このように生きる」という己の意志に従って生きていること、これこそが「自立して生きている」ということではないか。言い換えれば、人間の自由をしかるべく行使していることが「自立」なのです。

自己完結した生活という意味での「自立」は、ともすれば同じ社会に生きている人同士の結びつきを希薄にしてしまう、そういう危険もあります。なぜなら、人は自分の力のみで生きられる、という前提に立てば、困っている目の前の人を自分が助ける理由などなくなってしまうからです。すると、私たちの生きる「社会」はひどく窮屈で冷淡なものになってしまう。そうではなく、お互いがお互いの意志、つまり自由に生きているという意味での自立の精神を尊重しながらも、しかもお互いに支えあっているという感覚をもつこと、そしてそのうえに同じ共同体に所属しているという感覚を育むこと、これこそが大切なのではないでしょうか。

(文責:斎藤)

震災と故郷

by srp - 3月 19th, 2011

 あの大きな地震から1週間が経ちました。東京は一時「買いだめ」による商品不足や、余震の警戒と節電のための電車の運休や本数削減などがあり、現在もなお予断を許さないとはいえ、少しずつ、平穏を取り戻してきています。わたしたち一般市民が普段の生活を送るのにはそれほど支障ありません。

ですが、被災地においては今なお厳しい避難生活を送っている人々がいます。ライフラインも物資も不足しているかれらにしてあげられることは、しかし今のわたしたちには非常に限られています。しかし、募金や献血、それに物資の援助(物資については個人で送るのではなくて、しかるべき機関の呼びかけに応じるかたちですべきかと思います)など、小さくともやれることはあります。現地にボランティア活動に行くのはまだ無理でも、みなさんのちょっとした「思いやり」が積み重なれば、被災者の方々の大きな助けとなると思います。

 さて。私(斎藤)は福島に生まれ、18歳まで福島で育ちました。実家も友人も福島におります。幸いにも、みな海沿いにではなく内陸部に住んでおりましたので、津波に巻き込まれることもなく無事でした。しかし、元福島県民としてひどく心を痛める事態が現在もなお進行しております。福島第一原発の事故です。

 現在も自衛隊や東京電力社員らによる決死の――文字通り、死を賭しての作業が続いております。私はかれらの勇気と尽力に心から敬意を表します。しかしいったい何人の方々が被曝によって身体を破壊され、命を落とすことになるのか。地震による直接の被害ではないものの、これもまた震災の悲劇です。

 原発の被害は、何も被曝だけではありません。私がもうひとつ心配しているのは、福島の農作物や水産物に対する消費者の「恐れ」です。Fukushimaの名は今回の事故で不幸なかたちで海外諸国にも知れ渡りました。いったい放射能で汚染されているかもしれない食物を、だれが口にいれるでしょうか?たとえどれほど審査をクリアしたとして、少しでも内部被曝の恐れがあると見なされれば忌避されてしまうでしょう。福島には大きな工場はありません。その代わりおいしい農作物と水産物に清らかで豊富な水、そして美しい自然があり、それが誇りでありました。ですが今、その「かけがえのないもの」が「毒におかされたもの」になってしまう。美しい故郷が穢されてしまうこと――これほど悲しいことはありません。

 原子力発電の発電量は全体の30%。わたしたちの生活の少なくない部分が原子力によって支えられています。その恩恵の源が、この度あの恐ろしい事故を引き起こしてしまった。私たちの生活が、ある大きな危険を抱えることで成り立っているという事実が突きつけられたわけです。この事実をわたしたちはどう受け止めるべきなのか。危険を承知でこれまで通り原発を稼動させ、増加する電力需要に従って増設していくか、それとも現状のライフスタイルを反省し、より安心できる生活への道を模索するか。今回の事故は、これからの私たちの社会の在りようを見つめなおし、子々孫々にいたる未来の人々にどんな社会を残していくべきなのか、そのような問いを喚起するものとして受け止めるべきなのではないかと思います。
(斎藤)

授業ならびに自習について

by srp - 3月 15th, 2011

SRP教育研究所では、今回の東北地方太平洋沖地震の余震ならびに福島原子力発電所のトラブルに対し、授業の有無、自習の有無を協議した結果、生徒のメンタルサポートの効果を考え、当分の間は、教室としては平常どおりの時間帯での自習開放ならびに授業のための待機をすることを決定いたしました。

但し、高いところにある書籍の撤去、ならびに備品確保の為、一部、自習の席で使えない場所があります。また、交通機関の影響により、当日、教員を変更させていただくことがあります。

また、授業につきましてはこちらで待機はしていますが、全て後日への振替も可能とし、さらにその際の事前の連絡は不要とします。

また、自習に来られる際には、事前に家族もしくはSRPにその旨を伝えた上で
来所くださいますようお願い致します。

(伊丹)

なぜ木は生えるの?

by srp - 2月 12th, 2011

以前、小学生の生徒さんに「なぜ木は生えるの?」と質問されたことがありました。

いちおう私は「文系」ではありますが、まがりなりにも理科や生物を小中高と学んできた身です。これくらいちょちょいのちょいで説明できるだろうと思っていました。

それはね、まずは種の栄養を使って根っこを張ったり芽を出したりする。それからは根っこから土の栄養とか水分を吸ったり、葉っぱで光合成したりして、成長するためのエネルギーを作るんだ。そしてね……。

と説明していたのですが、どうも生徒さんは納得しかねる様子。はて、これほど簡単明瞭な説明もないような……?と思っていたところ、生徒さんが問うた「なぜ」というのは、そういう生える「メカニズム」のことではないようだ、ということに気づきました。どうやら生徒さんは、たとえば「なぜ人は生きるの?」という疑問と同列に「なぜ木は生えるの?」と質問したようなのです。つまり木が生える「意味」について尋ねていたのです。

さて、これは弱りました。地球温暖化を防止するためだよ……いや、これはあまりに人間中心過ぎるなあ。酸素を必要とする動物たちを養うためだよ……ううん、別に動物を生かすために木があるわけではないしなあ。種を存続させるためだよ……え?どうして種を残さなきゃいけないの、だって?それはその……ううむ。

木が生える「意味」を説明しようにも、なんだかどれもしっくりきません。結局、「木は生えるから生えるんだよ」と言うしかありませんでした。わたしたち人間にわかるのは「木は生える」という事実だけなんだよ、と。

生徒さんはそれでもやはり納得はできていないようでしたが、らちが明かないと思ったのかそこで問いかけを止めました。もし、さらに「じゃあ人間も?」と聞かれたら、どう返したらいいものか真剣に悩んでいたところです。もしかしたら、人間も「生きるから生きるんだ」としか言えないのかもしれないし……。

「なぜ木は生えるのか」という、大人なら「わかりきってることだろ」と一蹴してしまうような疑問でも、子どもは真剣に尋ねてきます。そうして問われていくうちに「あれ、そういえば、どうしてなんだろう?」とむしろこちらが悩んでしまう、そんなことが度々あります。子どもに真正面から向き合っていくことのおもしろさは、こんなところにもあるのだと思います(結局まともに答えられなかったんだから先生としちゃ失格だろ、と言われてしまえばぐうの音も出ませんが)。

みなさんもお子さんや周囲の方々に「なぜ木は生えるのか」を質問し合ってみてはいかがでしょうか。答えはひとつのように見えて、意外にめいめい異なった視点から「木が生えている」ということを捉えているかもしれませんよ。

※他に「どうして人は努力するの?」という質問もありました。SRPの先生の間でも、これの答えははっきりと別れました。

(斎藤)

by srp - 1月 17th, 2011

1月半ばから、中学・高校・大学等それぞれの受験がスタートし
森下校内でも「明日、受験だよ」などという、生徒同士の会話が
聞こえるようになってきました。

ここで試験というものに対し、心がけておいてほしいことがあります。

「試験は、会場で自分で持っているものを全て使い
 自分の実力を見せてくる場所だ」ということです。

試験直前になると不安から、新しい参考書が気になったり
新しい公式を覚えようとしたりということが多く見られますが
これは、それまで刀を使っていた武士が、合戦の直前になり
初めて持つ斧を振り回してみるようなものです。
最後にするべきなのは、刀の手入れをする、試験に置き換えると
自分の持っている知識や考え方を見直し、そしてそれらを
当日、しっかりと使える状況に保つことです。

試験中に、ちょっとくらい思い出せないことがあっても大丈夫です。
今までの積み重ねてきたことや、先生の言葉や、時には問題文の中にも
解らないことを考えるためのヒントはそこらじゅうにあります。

そして受験生の皆さんは、「最後の1分・1秒まで使って」志望校の先生に
「これでもかっ!」と、実力を見せつけてきてほしいと思います。

(伊丹)